アバンセ館長コラム第17号(令和5年8月)

アバンセ館長コラム 第17号  故郷に帰省して ~私の家族の歴史と未来の日本 ~(令和5年8月)

 今年6月、令和になって初めて私の故郷、宮崎に帰省しました。心を震わせる、いろんなドラマがありました。そのエピソードの一部を率直に綴ってみたいと思います。

 

  帰省前、親の墓参りに行くのに、思い切って久しぶりに弟に電話しました。会うたびに冗談を言い涙が出るほど笑い合う仲だったのに、この数年間は疎遠になっていました。弟が脳梗塞の後遺症で働けなくなり離婚して以来、私は、どう関わっていいのか怖かったのです。言葉に出さずとも、私の中にある、「父親としての責任があるのに」、「脳梗塞の後遺症とはいえ働けるはずでは」等、勝手な思い込みが消えないままでした。

  

 ですが、電話口で、たどたどしい発音ながら弟が、「元妻と三人で一緒に墓参りに行こう。楽しみにしている」と素直に言ってくれて、以前の関係に戻れそうな感触を持ちました。実際、墓参りをした後に、思いもかけず成人した甥や姪も集まることに同意し、一緒にご飯を食べる展開になりました。離婚後一度も顔を合わせることがなかった家族の再会。お互い葛藤を抱え、言葉や視線は殆ど交し合わなくても同じ時間と空間を共有でき、帰省してよかったなとしみじみ思いました。後で、弟が、生活費を切り詰めて元妻に仕送りを続けていることを知り、経済的に厳しい日々を慎ましく生き、病気療養も穏やかな心持ちで暮らしている弟の凄さを感じました。弟を惨めに暮らしているのではと捉えた私自身が恥ずかしかったです。

 

  翌日、中学時代の親友と高校時代の親友に会いました。二人とも、私の弱点を安心して出せる貴重な存在です。中学時代の親友は、中三から結婚するまで私が送った手紙やはがきを殆ど捨てずにファイルに保存していて、当時どんな気持ちでいたかを辿りなおす機会をくれました。高校三年生の時の手紙。自意識過剰な文面に交じって、「父親が、ダメ人間とか人生の落伍者など弟に酷い言葉を言うのを聴くのが辛くて、やめてと言ってもわかってくれない」という嘆きが書かれていました。私は、鳥肌が立ちました。弟が、離職し離婚した時に、「姉ちゃんごめんね。俺、ダメ人間。人生の落伍者になったよ」とメールをくれた文面と瓜二つだったからです。

 

  亡くなった父親に言いたいです。「お父さんは間違っていたんだよ。弟は男だから、高い学歴と良い職業に就いて欲しい、成績を上げたい一心で、このままではダメ人間になるぞ、人生の落後者になっていいのかと繰り返し脅していたよね。だけど、それって弟の一生を縛る呪文をかけていたんだよ。どれほど、心優しい弟が自分を必要以上に責めてきたか。」

 

  しかし、戦争で自分の父親を失くし、養子に出され、事業に失敗した父の人生を思うと、強い男児であれと期待され、その期待に応えられず自分を責めてきた弟の人生と二重写しのように痛ましく思え、言葉を失います。

 

  高校時代の親友からは、「当時の香津子さんは、ヤングケアラーだったよね。」と言われました。6歳下のダウン症の弟の世話をし、離婚により小学5年生から父子家庭で母親業をし、父の再婚で生まれた妹の世話をし、長期休みには自営業の父の手伝いをし、自分のしたいことよりも家族優先で時間を費やしていた長女の私の姿を回想しての言葉です。奨学金とアルバイトで大学進学を果たし、封建的な父親の支配から抜け出すことができた私を友人は誇らしいと言ってくれます。

 

  振り返ると、一人一人が必死に幸せになろうと生きていたはずなのに、昭和のわが家の歴史にもジェンダー不平等が色濃く影を落としていました。私自身、もう二度とあの頃の不自由さを繰り返したくはありません。未來を生きる人たちに繰り返させたくはありません。

 

---そんな思いを今回の帰省で強く抱きました。


 特定の個人を憎むこと恨むことが目的ではありません。個人的な話は政治的な話につながります。差別を再生産し、人の人生を不幸にする社会構造。そんな社会の影響を受けてきた過去と現在に気がつき、男女共同参画社会を目指す仲間を女性も男性も関係なく増やしていきたい。そして何よりも、平和を願いたい。8月15日は、終戦記念日。どんな未来を願いながら多くの方々が戦争で命を落とされたことでしょう。命を愛おしむ気持ちを根っこに持ちつづけながら、日々を生きていきましょう。暑い日々、皆様、ご自愛ください。

 

 
 アバンセ館長 田口香津子    プロフィール


 アバンセ館長

   佐賀女子短期大学 学長 (2018.4-2022.3)

 認定NPO法人 被害者支援ネットワーク佐賀VOISS理事長

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