アバンセ館長コラム第27号(令和6年6月)

アバンセ館長コラム第27号  多様なセクシャリティ ~わたしはアライになれるのか~ 

 

「女性問題」や「女性学」を学び始めた時代から「これは、女性だけの問題じゃない。裏返えせば男性の問題」と思っていましたが、その当時、男性は殆どが無関心、よくて理解者の立場に留まっていました。だから「男女共同参画」という言葉が浸透しだして「みんなが当事者になり、考える時代になってきてよかった」と嬉しかったのを思い出します。

 しかし今、生き方の多様性に気づくほど「女と男」と二つの性に単純に分けて考える怖さも感じ「男女共同参画」よりも、さらにふさわしい表現はないのかと思うようになりました。


 性のあり方(セクシュアリティ)については、「からだの性(生物学的な性)」・「こころの性(性自認)」・「好きになる性(性的指向)」・「表現する性(性表現)」の4つの要素から説明されることも増えてきました。からだの性は、出生時に主に医師によって割り当てられた戸籍上の性ですが、生物学的にも完全に二分できるわけではありません。


 こころの性(自認する性)も大別すれば、からだの性と一致しないトランスジェンダー、男女の枠にとらわれないエックスジェンダー、からだの性と一致しているシスジェンダーに分かれています。好きになる性も、異性を好きになるヘテロセクシャル、同性を好きになるホモセクシュアル(自認する性が女性で好きになる性が女性であれば、レズビアン、自認する性が男性で好きになる性が男性であればゲイ)、性自認はどうであれ男性女性両方を好きになるバイセクシャル、恋愛や性愛の欲求を持たないアセクシャルが存在します。そして、表現する性に関しては、服装、言葉遣い、立ち振る舞い等によって、自分の性をどう表現するのかという側面も加わります。

 この4つの要素の組み合わせだけでも、ゆうに100パターンを超えます。どれも、少数派であるための生きづらさはあるものの、治すべき障がいや病気ではなく、その人らしさにすぎません。

 そして他人がその開示を強いることはできません。自らの性のあり方を、いつ誰にどのように開示するのかしないのかは、本人の選択です。こうしてみると、一人一人が唯一無二の存在であることは頭でわかりながら、見知らぬ段階で相手を理解するハードルの高さにたじろぐ思いも湧いてきます。

 「不用意な言動で目の前の相手を傷つけるのではないか、それは避けたい。」相手も自分も同じように尊厳があると思えば、たじろぐこともプラスの意味がありそうですね。


 さて、わたしのSOGI(性的指向・性自認)をここでお伝えしておきます。

 私は、ヘテロセクシャルでシスジェンダーですが、過去を振り返ると100%と言い切れません。揺れた時期もありました。性表現の方向性は、徐々に中性的になってきていますが、ときどき花柄などの女性的なおしゃれを楽しみ、ひとつの型に嵌らない変化や自由さを好みます。ただ、自分でも気づいている心配な傾向があります。

新しい出会いに対して「あなたのことを知りたい」と願い、深く関わる姿勢が希薄になっている気がしています。既存の関係性の中で安堵したいのかもしれません。加齢現象なのでしょうか。


 私は、ひとりひとりの違いを受け入れ、応援できる存在~アライ(ALLY)になれるのでしょうか。

 簡単に相手を分かる超人にはなれませんが、わかろう、つながろう、という気持ちはなくしたくないのです。せめて、柔らかな感性を持つ人たちとの交流が途絶えないようにします。

 コラムを読んでくださった皆さんはいかがですか?

 自分はどうかな?と考えることが、当事者性の始まりかなと思っています。

 
 アバンセ館長 田口香津子    プロフィール


 アバンセ館長

   佐賀女子短期大学 学長 (2018.4-2022.3)

 認定NPO法人 被害者支援ネットワーク佐賀VOISS理事長

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